LED ZEPPLIN 2

 

改めて、ゼッペリンを語りたい。基本的にベーシストとの間では、全曲コピーが必須となっているのだけれど、まー聴き方って言えば、僕はドラマーなので、ドラムを中心に、あとは、ガイドやきっかけの目安として他の楽器を聴くわけで、ミュージシャンとして聴く自分がいます。リスナーとしてゼッペリンを聴くという行為を、実は、もう四半世紀以上していない自分につい日曜日に気づきました。なぜ気づけたか?それは、パートナーがリスナーから実際に歌うという前提で、ゼッペリンを聴き始め、歌い始めた時の感想を聞いてからです。

ループと韻を踏まないラップのような歌

確かに!僕が聴いていたのは、プラントのきっかけづくりやその道程で、起こることの表現方法としてのメロディーライン。歌うものにとっては、それは、ロバートプラントを深く知らないといけないことであり、まず第一に、その彼自身というものでなくては歌えない!という結論に至ってしまう。人々には、なぜか残っているその不思議な感じは、リスナーであらばこそ、ボーカリスト以外だからこそ。なんだと思い知らされました。ギター・ベース・ドラム・の演奏って並走しながらも没頭できて、決めがあるとすごく気持ちが良い。そんなことだと思います。基本的にジャストタイムでプレイすることって、決め音は全部デッド(音消え)になるので、その没頭感で、トランス状態になる。そのなかでボーカリストって〜のは、一人そのサウンドを聴きながら自分で画を描いていく。今この空間では、世界一の表現者である!として。

聴き方を変えたり、見方を聞いてみたり。物事には、とかく信頼という大前提が必要。そこから色々なものが始まり、そこに収まっていくと思っています。音楽はフリーダムになってきた日本。楽しみ方はたくさんあって良い。でも押し売りはダメ。そしてミュージシャンなら、ドアがあったら開けてみて、その次の世界を知るべきです。リスナーはプレイしているものを信じています。狭い部屋に閉じ込めている音楽は、今や流行りません。さー界なく音楽を楽しみましょう。

名言:細野晴臣氏

わかるものの中にわからないものがある。始めからわからないものはおもしろくない。 凡人たる我々は、わかることから入ってわからないものを知ろう。